低温液化室のあゆみ

富山大学 研究推進機構 研究推進支援センター 自然科学研究支援ユニット

極低温量子科学施設

Low Temperature Quantum Science Facility

| HOME | 低温液化室のあゆみ |

更新日 2015-09-08 | 作成日 2009-04-02

低温液化室のあゆみ


  低温液化室は、液体窒素および液体ヘリウムの製造ならびにその配分を円滑にして研究および教育の推進を図る目的で、昭和51年(1976年)学内共同利用施設として設置された。ここでは、低温液化室の前身である液体窒素製造装置室と、更に、液体窒素製造装置室のできる以前の富山大学の液化ガス利用の状況も含めて、そのあゆみを振り返ってみよう。

1 液体窒素製造装置室の建設の以前(昭和43年以前)

  昭和20年代、30年代は学内で液体窒素を供給できる施設はなかったので、各教官はそれぞれ寒剤の入手先を探さなければならなかった。当時の富山大学の状況を「富山大学低温液化室開設10周年記念号」(以下、10周年記念号という)の中で垣間みることができる。昭和26年に富山大学へ赴任してきた竹内豊三郎(元・トリチウム科学センター教授)は真空装置の冷媒として液体窒素を必要としていた。彼は当時の状況を「10周年記念号」の中で次のように述懐している。「液体窒素を日産化学や昭和電工から大学まで運ぶ方法が問題でした。手塚先生(現・教育学部教授)が学生の頃で雪が積もり橇(そり)が使えない時には2・ぐらい入るガラスの魔法瓶を手に持って2~3人で運んでくれました。毎日のことですから大変でした。」龍山智栄(現・工学部教授)も日産化学のお世話になった一人である。液体窒素で冷却するような研究は、まだ工学部や薬学部では少なかった。たまに生物の冷凍に使われていた。

2 液体窒素製造装置室のあゆみ(昭和43年~)

  昭和40年代に入って、日産化学の都合で本学に液体窒素の協力ができなくなってから、竹内、榎本三郎(元・富山医科薬科大学教授)、藤木興三(元・教育学部教授)が中心となって、富山大学に液体窒素製造装置の導入の検討が始まった。昭和43年(1968年)、液化能力1時間当たり25・のフィリップス製のPLN-430の設置が決定し、49平方メートルのコンクリートプレハブによる液体窒素製造装置室の建屋の建設が始まった。翌年、1000・の液体窒素の貯槽が設置され、3月に液化機の運転が開始された。液化機の運転と管理に専属の職員(日々雇用職員)が当たった。運転は起動時を除いて完全自動運転であり、1~2週間の連続運転が可能な画期的なものであった。当初、液化機は教育学部に所属し、教育学部で管理していたが、後に全学の管理に移った。
  薬学部が富山医科薬科大学へ移行する昭和52年(1977年)から54年までの間、低温液化室(後述)は、薬学部・医学部そして和漢薬研究所に液体窒素の供給を続けている。昭和54年度の液体窒素供給実績表をみると、理学部12研究室、工学部6研究室、教育学部2研究室、教養部2研究室、本部(RI)1件、医科薬科関係では、医学部4研究室、薬学部14研究室、和漢薬研究所3研究室、計44研究室(RIを含む)となっている。その当時、薬学部が最大のユーザであった。
  運転から10年を過ぎると液体窒素の液化機の故障が目立ち始め、昭和55年(1980年)、当時の室長の斉藤好民(元・理学部教授)は修理を断念し、昭和55年12月18日の低温液化室運営委員会で、液体窒素を外部業者から購入する方向で検討することを提案し了承された。以後、液体窒素は業者から一括購入され、タンクローリにより1000・貯槽に貯蔵され、各ユーザはそこから汲み出すことになる。液体窒素製造装置はその後撤去された。

3 ヘリウム液化装置室の建設と低温液化室の設置(昭和49年~)

  液体窒素より更に低温の研究については、昭和46年頃から、物理教室の中川正之、片山龍成、児島毅が中心となってヘリウム液化機の概算要求が検討され、翌年、正式な要求書が提出された。同時に、ヘリウム液化機に責任の持てる低温研究者として、昭和48年4月、斉藤好民が東北大学から教授として赴任した。斉藤の精力的な活動と当時の林学長、竹内等の努力を合わせて、遂に、ヘリウム液化機の概算要求が認められた。昭和49年(1974年)、2階建て延べ面積116m2のヘリウム液化装置室の建屋が建築され、翌年50年3月、ヘリウム液化装置が設置された。液化装置は1時間当たり液体ヘリウム5・の液化能力をもつCTi 1204であり、完全自動の機種であった。しかし、完全自動といっても定常状態になるまでの運転の監視、実際の液体ヘリウムの供給とヘリウムガスの回収等の仕事は必要で、実際には、物理教室第1研究室の助手、当時、森克徳(現・工学部教授)と物理教室の技官、当時、水島俊雄(現・理学部助手)がそれにあたった。以後、ヘリウム液化機の運転・保守・管理等は長い間この体制が続いた。初年度(昭和50年度)の液体ヘリウムの液化量と供給量はそれぞれ640・と130・であった。
  富山大学での全学への寒剤の供給は、液体窒素と液体ヘリウムの2つが可能になり、ようやく低温液化室としての形が整った。学内共同利用施設であった液体窒素製造装置室は、新たに建設されたヘリウム液化装置室と制度的に統合されて、昭和51年(1976年)7月、低温液化室に名前を変えた。
  その後、液化機CTi 1204の時代は12年続いた。その間の主な低温に関する研究・教育を2、3あげよう。理学部の斉藤はトルク法によるドハース-ファンアルフェン効果の実験により金属内電子のフェルミ面の研究を精力的に推進した。昭和51年には、早くも10テスラの超伝導磁石を導入している。教育学部の清水建次はギガヘルツの高い周波数のNMRの研究を始めた。工学部がまだ高岡にあった頃、龍山は昭和51年~52年の頃の様子を「10周年記念号」の中で次のように述べている。「溜まりの悪いクライオスタットで森先生に迷惑をかけました。」液体ヘリウムを車で高岡に運んだ時のことを、「高岡に着くまでに半分くらい蒸発して、ヘリウムガス回収用の風船で車の中が一杯になって苦労しました」と述べている。

4 ヘリウム液化機の更新

  CTi 1204も10年を過ぎてから故障が目立ってきた。10テスラの超伝導磁石は月1回のペースに使用が制限され、教養部にあったPAR社製のVSM(試料振動型磁力計)も週1回に制限された。こんな笑えない話があった。当時、佐藤清雄(元・理学部教授)はパルス磁場下での磁化と電気抵抗の測定装置を立ち上げていた。石川義和(現・理学部教授)はこのパルス磁場を使って磁化のデータを学会で発表した。会場からなぜパルス磁場を使うのか、との質問がでた。磁場は特に高磁場でなく、普通のVSMで測定できるデータだった。答えは、VSMでは液体ヘリウムを3・くらい使うが、パルス磁場だと1・も使わないからであった。理学部の地球科学科の広岡公夫(現・理学部教授)のところでは、岩石磁気研究のためにSQUID(超伝導量子干渉磁力計)を導入したものの、多量の液体ヘリウムを必要としたため、最初から液体ヘリウムを外部業者から購入しなければならなかった。しかし、専任の液化要員もなく1時間5・の液化能力では、たとえ液化機が正常に運転されていてもやむを得なかったのかもしれない。
  このような状況を改善するために、当時室長だった佐藤は液化機の更新の準備を始めた。昭和60年(1985年)12月、既に名誉教授になっていた竹内を招き学内の低温研究者を集めて、座談会形式で将来の展望を話し合った。この座談会の様子は昭和61年(1986年)3月発行の「10周年記念号」に収録されている。この「10周年記念号」は富山大学における低温研究の現状と課題をまとめた、所謂、今で言う、自己点検報告書となっている。更新のための概算要求書も書き上げた。ヘリウム液化機の更新は佐藤自身も非常にラッキーだったと後で述懐している。当時日本はバブルが弾ける前の絶好調の時代だった。中曽根内閣はアメリカの対日赤字を減らすためにアメリカ製品を買うことを奨励していた。佐藤は、「富山大学低温だより」(以下「低温だより」という)の創刊号で、ヘリウム液化機は「昭和62年度7月24日に成立した62年度補正予算に伴い、総額10億ドル規模の政府調達による追加的な外国製品の輸入をはじめとする輸入拡大政策の一貫として、補正予算設備費として購入が認められた」と説明している。昭和63年(1988年)3月、純ガスで1時間30・、不純ガスで1時間26・の液化能力のあるKOCH社製の1410型の運転が開始された。この時、ボンベ室が増設されている。新しい保安係員として石川、水島が運転にあたり、不十分だった液体ヘリウムの供給を、「必要な液体ヘリウムを必要なだけ供給する」をモットーに液化運転を再開した。

5 「低温だより」と「現状と課題」の発行

  「低温だより」は、液体窒素と液体ヘリウムの各ユーザ、教官、事務官の意志の疎通を図り、協力関係を密にするために、昭和63年(1988年)に運営委員会に提案され、昭和64年(1989年)3月、創刊号が発行された。「低温だより」は、以後、毎年3月に発行され、KOCH1410と共に歩んきた。平成12年(2000年)3月には12号が発行される。また、富山大学の自己点検ブームにより、平成5年(1993年)3月には低温液化室でも第1号の自己点検報告書「富山大学低温液化室の現状と課題」(以下、「現状と課題」という)をまとめた。以後、ほぼ毎年「現状と課題」をまとめている。
  昭和63年(1988年)以降の低温液化室のあゆみは、この「低温だより」と「現状と課題」を見れば、かなり詳細に知ることができる。その中で、次の2つのことに限って記しておこう。

6 「おもしろ夢大学in TOYAMA」に参加

  富山大学地域共同研究センターが中心となって小・中・高校生、一般市民、企業の方々を対象に、平成4年(1992年)9月12日、第1回「聴いて・見て・触れて--おもしろ夢大学 in TOYAMA」(以下、「夢大学」という)が開催された。低温液化室では、理学部・教育学部・教養部、後から工学部の多数の教官・院生・学生が全面的に協力し、「極低温の世界」と題してそれに参加した。液体窒素を使った金属球や空気の熱膨張、銅線の電気抵抗、液体ヘリウムの電気抵抗ゼロの超伝導の実験や、超流動の這い上がりのデモストレーションを行った。低温液化室のこれらのイベントは見学者の関心の高さもあり好評を得た。第2回(1993年10月)の「夢大学」では、「極低温の不思議」というタイトルの8ページの小冊子を作って、見に来ていただいた人たちに配布した。また、酸化物高温超電導体による磁気浮上のデモストレーションを行った。1996年の「夢大学」では、超伝導ジェットコースターのデモストレーションを行い、超伝導物質の磁気的反発力による浮上の現象だけでなく、ぶら下がりの現象に多くの見学者を不思議がらせた。低温液化室は、毎年、「夢大学」に展示(デモストレーション)ないし体験入学の形で参加していて、担当者達はマンネリしているのでないかと心配しながらも、1999年の「夢大学」では展示と体験入学の両方を行い、液体窒素と液体ヘリウムを使ったデモストレーションは多くの人々に興味をわかせ、感動を与えた。

7 日仏セミナーの開催

  低温液化室のKOCH1410時代における研究活動の例を1つだけ上げるとすれば、平成8年(1996年)3月13から15日までの3日間、立山山麓の富山厚生年金会館で行われた日仏セミナーの開催とそのProceedingsの発行をあげなければならない。当時室長だった桜井醇児(現・理学部教授)は、代表者・桜井の科研費・国際学術研究を1994年と1995年の2年間、富山グループとフランスのグルノーブルの極低温・中性子散乱研究グループとの共同研究として推進していた。桜井は、より低温の実験を開発するために、グルノーブルの極低温研究所のデザインした希釈冷凍機を1994年に導入した。これら共同研究の総決算として桜井は、 'Thermal, magnetic and electrical properties of rare earth compounds' という名称の日仏セミナーを富山で開催した。参加者は、フランスのグルノーブルとパリから10名、富山勢とは別にグルノーブルのグループと共同して成果を上げている日本の研究者13名、そして我々富山大学と富山県立大学の低温研究グループ8名、計31名であった。参加者が極めて多い国際会議と違って、親しい雰囲気で質の高い討論ができた。
  このセミナーの成果は、日本物理学会から、石川、前澤邦彦(現・富山県立大学教授)、桜井の編集のプロシーディングスとして平成8年(1996年)10月に出版された。その名称は、Suppliment B to Journal of the Physical Society of Japan, Vol. 65 (1996), Proceedings of the Japan-France Seminar on 'Magnetic, Electric and Thermal Properties of Rare Earth Compounds' edited by Y. Isikawa, K. Maezawa and J. Sakurai である。

8 低温液化室の現況

  現在の低温液化室の状況をまとめておこう。液体窒素については、外部業者からの一括購入で1000・の貯槽に貯蔵された液体窒素を全学のユーザに供給している。ただし、地域共同研究センターだけは自前で液体窒素貯槽を持っている。しかし、この1000・は昭和44年(1969年)設置であり、今では、週に2度以上タンクローリに来てもらっても空にしてしまうことがあり、ユーザに迷惑をかけている。液体ヘリウムについては、新しい液化機への更新から12年が終わろうとしている。この間、液体ヘリウムの大型利用としては希釈冷凍機が2台と多数の超伝導磁石がある。低温・磁性以外の液体ヘリウムの大型利用として、レーザー・電波分光の研究で使われるボロメターの冷却等がある。低温液化室から液体ヘリウムを供給していない機器として、工学部設置の9.4テスラのフーリエ変換核磁気共鳴装置がある。現在、工学部と低温液化室とはヘリウムガス回収配管が引かれていないため、工学部での液体ヘリウムの利用は極めて不利になっている。ただし、理学部、教育学部もヘリウムガス回収配管が引かれていないのは同様である。富山大学ではまだ1m3の黒い大きなガス風船を背負って学内をうろついている姿を見ることができる。(敬称略) 


(記、低温液化室運営委員長 石川義和)(2000,1,18)